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【J.GARDEN46スペシャルSS】
 
「このたびは本当に助かりました! また次もご依頼させていただきますので、今後ともどうぞよろしくお願いいたします!」
「ええ、こちらこそ」
 やたらと元気のいい先方を事務所の出入り口まで見送りに出れば、最後の最後に暑苦しく握手を求められ、裄久はそれに応じた。
「では、失礼致します!」
 ドアが閉まったのを確認してから、手のひらをズボンで拭う。春先とはいえ、今日はやや蒸し暑い。手汗をかくのは仕方がないとはいえ、せめてハンカチで拭いてから握手をするのが礼儀ではないか。まあ、あのくらい厚かましくなければ、営業の仕事は勤まらないのかもしれないが。
「お疲れさま。今回も大変だったね」
「ええ。まったく」
 その通りだと返事をすれば、来生に苦笑された。
 裄久はこの一週間、ろくに寝ていない。家には帰っているが、シャワーを浴びて二時間ほど仮眠をとり、また事務所に戻って仕事をするという生活が続いていた。だがそれも今日で終わりだ。
 今回の仕事は、夏前に広告を打つデオドラントスプレーのパッケージデザインだった。二十代から三十代の女性層をターゲットにした商品で、一週間の納期という無茶ぶりの仕事だった。と言うのも、前任者が病気で入院になり、その仕事が裄久に回ってきたのだ。
 来生の最初の仕事を引き受けたのが、そもそもすべての始まりだった。短い納期でクオリティの高い仕事を手掛ければ、業界内に噂がまわる。困ったときの神頼みならぬ、彼に頼めば間違いないという触れ込みのようなものが出回り、出所はおそらく最初に引き受けた来生の仕事だろう。
 フリーになったばかりで、仕事は途切れることなく舞い込んでくるのは有り難いが、大半は納期が厳しく、無茶ぶりなことが多い。
 おかげでこの一週間、律に触れていないどころか、夜も会っていない。心配をかけないよう顔見せも兼ねてランチは毎日食べに行っているが、顔色を見れば寝不足なのは隠しようもないだろう。夕飯を作りに行くという申し出も、帰宅時間は夜中だったり朝方だったりと不規則なので断っている。律は不満そうだが、彼にも仕事があって、仕込みがある律の朝は早い。自分のせいで生活リズムを狂わせるわけにもいかず、この一週間は律にまったく触れていないのだ。
 だが、それも今日まで。
「ランチに行ってきます」
 事務所のスタッフに声をかけてから、向かいのビルに向かう。
 恋人の律は、道路を挟んだ向かいのビルの半地下で、〝ルフラン〟という昔ながらの喫茶店を経営している。正確には、律の祖父の店だが、それを律が引き継いだ。ぎっくり腰をやって店は引退したという律の祖父、宗一は寡黙な男だが、観察眼が鋭いという印象だ。
 その宗一は、最近やたらと店にいることが多い。アルバイトの梶にコーヒーの淹れ方を教えているらしいが、それは本当だとしても、店にくる理由の一〇〇%ではないと裄久は思っている。
 なぜならば――。
「いらっしゃいませ」
 カウベルが鳴り、裄久の顔を見た律が嬉しそうに微笑む。客に見せない、裄久だけに向けられた顔だ。
「急ぎの仕事は終わった?」
「ああ。さっきな」
「よかった。夕飯はなに食べたい?」
「帰るまでに考えとく」
「わかった」
 水とおしぼりをテーブルに置いた律は、カウンターへと戻っていく。その足取りは軽く、一週間ぶりに夕食を一緒に食べられる嬉しさを語っていて、裄久はくすっと笑う。
 ランチはいつも、店にないメニューを律は作る。手間がかかるから店のランチでいいと言っても、律は譲らない。無茶ぶりの仕事が増えていくにつれ、夜は一緒に過ごせなくなることも多くなっている。せめてランチだけでも栄養のあるものを食べさせたいという律の心配もあり、それを軽減できるならばと、裄久は出されるものをありがたく食べている。
「いらっしゃい」
「こんにちは」
 コーヒーを運んできたのは、アルバイトの高水ではなく、宗一だ。律がランチを作っている間に、最近はこうして宗一がコーヒーを持ってくる。テーブルに置くと、ランチが運ばれてくるまで裄久の向かいに座るのがここ最近の日課になっていた。
「おかげさまで、仕事は無事納品できました」
「そうか」
「はい」
 宗一は自分からは決して喋らず、ただ向かいに座る。その沈黙に耐えられなくなるのは裄久の方で、いつもこちらから話しかけているのだ。おかげで、裄久の仕事の納期なども宗一は知っている。話す話題と言えば仕事のことしか思いつかず、それで場を繋ぐのが定番化していた。
「ここは古いビルだが、まあまあ立地はいい」
 珍しく宗一の方から話題を振ってきた。
「そうですね。オフィス街ですから」
「ちょうど五階が来月に空く。まだ店子は見つかっておらん」
 この店は賃貸だと思ったら、宗一が所有しているビルだった。律は、もうかなり古いから今どき流行らないけどねと苦笑していたが、そんなことはない。レトロな外観は趣があり、ビルに入っているテナントの多くはアパレルや美術系といった、わりと名の通った事務所が入っている。聞けば来生も、このビルに事務所を構えたかったらしいが、空きがなく、向かいのビルにしたらしい。
「五階なら最上階ですね」
「屋上には使ってないセカンドハウスもある。まあ古いがな」
 それは初耳だ。屋上になにか建物があるのは来生の事務所から見えるから知っていたが、宗一のセカンドハウスだとは知らなかった。
「律に使えと言っても、遠慮して部屋を別に借りとる。それはお前さんも知っとるだろうが」
「ええ」
 宗一はそこでふいに押し黙った。珍しく宗一の方から話題を振ったかと思えば、裄久の返事が気に入らなかったのだろうか。
 しばらく待ってみたが、宗一の方から話す気配はない。律の祖父でなければ、沈黙など気にしないが、宗一相手ではそうもいかない。律と付き合っているとまだ告げてもいなければ、言うタイミングも難しい。宗一のことだから勘づいていそうだが、探りを入れるのも宗一相手では憚られる。かと言って、ランチを食べに来たついでに話すことでもない。
「いずれ律が……律くんに、このビルを譲るんですか?」
「そう思っとる」
 裄久の方から話題を振れば、返事はある。怒っているわけではなさそうだ。
「それなら、しっかりした管理会社を見つけないとですね。店子は不動産に任せるにしても、律は……律くんは、そういうのに疎そうですから心配ですね」
「お前がおるだろう」
 それは、どういう意味で言っているんだろうかと考えあぐねる。
 律と付き合っているが、いずれ律がこのビルの所有者になったとしても、それは律の財産だ。裄久が口を出すべきことではない。
「お前さんには、その覚悟はまだないか」
 宗一を見れば、その目と言葉がすべてを語っていた。
 律と一緒に生きる覚悟。互いに足りないところは補い合い、助け合って生きていく覚悟。
 相手の人生を背負うのは正直重たいが、それでも、一緒にいたいと思うのは、律を愛しているから。
「いえ。覚悟ならあります。俺ほど律くんを……律を愛している男はいませんから」
 にこりと微笑めば、宗一の頬がわずかに緩む。
「五階に新しい店子を入れるつもりはない」
 それはつまり、裄久に事務所を構えろと言っているのだろう。
「屋上のセカンドハウスも、好きに改装していい」
「はい」
 律と一緒にそこで暮らせば、どんなに不規則な生活が続いても、寝に帰るだけでも、律の顔が見られる。
「話はそれだけだ」
「ありがとうござます」
 丁寧に頭を下げれば、宗一はなにも言わず立ち上がり、カウンターへと戻っていく。入れ違いで、律がランチを運んできた。
 他に客もいないから、宗一が座っていたところに律も座った。
「じいちゃんとなに話した? なんか嬉しそうに戻ってきたけど」
「お、美味そうだな。肉も魚もどっちも食いたかった」
「ならよかった」
 鶏のつくねに、魚の煮付け。白米に味噌汁とお新香の和定食が出てきた。睡眠が足りてないから、脂っこい食事は胃が受け付けない。律はその辺をわかっていて作ってくれるからありがたい。
 裄久が食べる姿をにこにこしながら見ている律は、思い出したらしい。
「そうじゃなくて、じいちゃんなにか言ってなかった?」
「なにかって?」
「なんか、五階に入ってる事務所が来月に出ていくみたいで、ついでだからここの名義変更をするから時間を空けとけって」
「俺も一緒にって?」
「そう。なんでわかった?」
 それは今さっき、聞いたからだ。
「なんでだろうな」
 くすっと笑えば、律は小首を傾げた。
 覚悟なら、とっくにできている。律を幸せにする覚悟。一緒に生きていく覚悟。律を手放すつもりはない。
 健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすことを誓います――
 END